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前回は、ドミニカ共和国から帰国し、達川監督の方針の下、厳しい練習が行われていたファームの秋季練習に合流したところまでお伝えしました。
9月29日。この日の朝、嬉しいことがありました。食堂でスポーツ新聞を手に取り、広島版のページを開いて見るとそこには、「広池、指名OK」という見出しで私についての記事がありました。内容は、「テスト生としてドミニカに渡り、カープの施設で練習を続けて来た広池をドラフト指名することがルール上問題ないという見解を連盟が示した。」というものでした。球団側がそういった問い合わせを連盟にしていたことがとても嬉しく、ドラフト指名が少し現実味を帯びて来たように感じました。
大いなる希望を抱きながら取り組んだ翌日の由宇球場での練習。ブルペンでの立ち投げの捕手を務めたのはなんと達川監督でした。
「ほれっ!思いっ切りほうってみい。遠慮せんでええからの。」
一瞬、緊張を覚えましたが、思い直して思い切りミット目掛けて投げ込みました。ところが、何球投げても監督は頷くことはなく、いい反応は返ってきませんでした。そしてついに、
「ドミニカで何をやってきたんだ。去年のほうが良かったぞ。」
と言い残し、捕手を交代してメイングランドのほうに行ってしまいました。その時受けたショックは、とてつもなく大きなものでした。その日のそれ以降の練習には全く身が入らず、殆ど言葉を発することもできませんでした。暑い中、体力が尽きるまで練習をしてきたドミニカでの日々が否定されてしまったような気がして、ひどく落ち込みました。
帰りのバスの中、私は、まだ俯いていました。そんな私に声を掛けてくれたのが、今日のブルペンでの出来事の一部始終を見ていた同郷の同級生、小畑捕手でした。
「気にするな。達川さんは、ああいう言い方で激を飛ばす人なんだから。期待の裏返しだと思うよ。」
その言葉にどれだけ救われたことか。私は、自分の心の中を覆っていた深い霧が、すっーと晴れていくのを感じました。
「そうか。そうだよな。監督がテスト生の球を受けに来てくれただけでも凄いこと。それに、最後の厳しい言葉は、俺がどれだけの気概を持っているかを試す為にあえて言ったに違いない。」
そう考えるともはや落ち込む理由などありませんでした。私は、明るさを取り戻し、大野寮に戻って美味しいご飯をたくさん食べて、疲れた体に充分な栄養を補充し、翌日の練習に備えました。
練習は、相変わらず厳しいものでした。走って、走って、また走って。来季、1軍で指揮を執ることが正式に決まった達川監督の方針は徹底されていました。体力には自信を持ってアマチュアでの野球人生を送ってきた私でしたが、今回はさすがに堪えました。疲労が蓄積し、ピッチングのほうにも微妙な狂いが生じ、勢いを失っていきました。
そんな私を見て、練習方法の変更を提案したのが、清川投手コーチでした。清川さんは、私のブルペンでのピッチングを暫く休ませて、ネットに向かってボールを投げたり、内野ノックを受けて、捕ったボールを素手の清川さんが捕れるくらいの力加減で肘や手首を柔らかく使って投げる練習に切り替えました。清川さんは様々な練習方法の引き出しを持っている人です。その熱心な指導の下、私のフォームは徐々に固まってきました。下半身の使い方、腕の軌道。ひとりで考えても分からなかったことを、清川さんはすぐに的確に答えてくれました。やはり、プロで何年も生き抜いてきた人、努力と工夫を重ねてきた人は違います。そして最終的には、私の場合、「回転の多い、山なりのボールを投げられるフォームが理想のフォーム」であるとの結論に達し、清川さんとの合言葉として「迷ったらソフトタッチ」という言葉が生まれました。この言葉は現在でも私の心の中心にあり、ここまでの10年のプロ生活を支え続けてくれた大切な言葉です。
11月に入り、いよいよキャンプが始まりました。ファームの場合、場所は由宇で変わりはないのですが、練習メニューは、当時の日記に「こんなにやって大丈夫なのか?」と記するほど、とてつもないものになっていました。この頃、この時以来、後にも先にも痛くなったことがない膝が痛み出し、普段は、階段を昇るのは不可能、そして、歩くのも辛い状態でしたが、練習中は気合いで痛みを封印して走りまくりました。午前中の永遠に続くインターバル走は、いつの間にか競争となり、アピールの場となりました。
「こらぁ!もっと前に出んか!」
「もっと足を上げて走らんか!」
コーチ陣から容赦なく激が飛びます。いつしか、若手は1日に1回はトップでゴールすることを義務付けられるようになり、それができなければ、以降の練習から外されたり、更なる走り込みを命じられたり、厳しい罰を受けることになってしまいました。まさに、殺伐とした雰囲気の中、極限の疲労の中で死に物狂いでトップを狙う激しい争いは1日に何度も何度も繰り返されました。当然、みんな必死です。ここでのアピールが来春の1軍キャンプへの足掛かりとなるからです。しかし、正直、私はもっと必死でした。プロになることができるなら、足が折れても走り続けるつもりでした。私は、少しでもアピールになるならと、体力の続く限り何度もトップを走り続けました。
「こらぁ!お前ら!テスト生に負けて恥ずかしくないのか!プロで何をやってきたんだ!!」
当然、コーチから選手に向けて厳しい言葉が飛びます。私は、周りの選手から何度も嫌な顔をされました。それも、当然です。ただでさえ、テスト生なんて邪魔な存在。各球団で保有できる選手には限りがあります。心から私の合格を願っている選手なんて、少なくてもここにはいないでしょう。このファームのキャンプに参加している選手で、確固たる地位を築いている人はいません。自分の生活をかけて野球をするこの世界では、周りはみんなライバル。辛いですがそれが現実です。
それでも、私はトップを走り続けました。
「みんな、すまん。でも、仕方ないんだ。今だけは、譲るわけにはいかないんだ。分かってくれ。」
私は、心の中でそう呟きながら走り続けました。若い選手からは、ちょっとした隙に口をついた「疲れた」という私の言葉に対して「それなら、こんなところに来ないで全日空へ帰ればいいじゃないですか。」などと言われ悔しい気持ちになりましたが、立場上、じっと耐えるしか方法はありませんでした。
心身共に辛い日々が続きましたが、ピッチングのほうは、キャンプの中盤を迎えた頃、絶好調になっていました。そして、ドラフトをちょうど1週間後に控えた日の由宇での練習中、私に嬉しいニュースが届きました。
「広池。よう頑張っとるなぁ。ドラフト指名が決まったぞ。でも、キャンプは最後まで頑張っておくんだぞ。」
そう言って下さったのは、備前スカウトでした。この有り難い言葉に、心の中では大絶叫。内臓が実際に動いているのを感じるくらいに喜びに沸き上がっていましたが、周りに選手がいたので、できる限り冷静に、でも繰り返しお礼を言って、練習に戻りました。
それからの1週間は長く感じました。でも、体の奥底から湧き出るエネルギーは半端なものではなく、厳しい練習も難無く乗り越えることができました。
そして、迎えた運命の日。ドラフト会議が始まりました。テレビ中継などはなかったので、私は、大野寮の自室でじっと祈るような気持ちでその時を待ちわびていました。指名は信じて疑っていませんでしたが、やはり何も手につきません。午前中から会議は始まっていましたが、他球団からはノーマークの私は、当然、最後の指名になることは分かっていました。午後1時を過ぎました。指名が決まった時点で、大野寮の吉田寮長のところへスカウトから電話が入ることになっていましたが、まだありません。
1時半を過ぎました。まだ連絡はありません。ドラフトは、蓋を開けてみないと分かりません。昔から、この運命の日の数々のドラマを報道を通じて目の当たりにしてきた私は、少し焦りが出てきました。
「もしかして、上位で思わぬ選手を獲得できたのかな?そうしたら、保有選手枠の問題もあるし、削られるのは俺だ。」
備前さんの言葉は信じていましたが、それでも時間の経過と共に、不安は雪だるま式に増長し、勝手に最悪の事態を想像してしまいました。
2時を過ぎました。いよいよ居ても立ってもいられなくなった私は、部屋を出て、寮のロビーで今度は祈るような気持ちではなく、本当に祈っていました。
「お願いします。私をプロ野球選手にしてください。」
祈りながらも、指名されなかった時の自分を想像すると、そのたびに全身に変な汗をかきました。
そして、不安も頂点に達した2時15分。どちらにしても、状況を確認しようと席を立ったその時、吉田さんが電話のある部屋から飛び出してきました。笑顔です。
「広池!おめでとう!今、スカウトから電話があった。カープが8位で指名した。おめでとう!!」
「本当ですか!ありがとうございます!」
私は、吉田さんと固く握手を交わしました。良かった、本当に良かった。全日空を飛び出し、後戻りできない状況で挑んできた挑戦がついに実を結びました。あまり、考えないようにはしていましたが、やはり不安もありました。私の挑戦を見守り、プロ野球選手になることを認めてくれたカープには、いくら感謝しても足りません。今後、選手として活躍して少しずつでも恩返しをする必要があります。この時までに既に2度に渡り秋季キャンプに参加し、プロのレベルと厳しさを実感していたこともあり、指名の喜びはすぐに今後への強い決意へと変わりました。
「今日、ひとつの大きな夢が叶った。でも、これで終わりじゃない。今日が始まりだ。年齢も年齢だし、1年目から勝負。絶対に1軍で投げるんだ。」
指名決定から少し後、部屋に戻った私のところへ再び吉田さんがやって来て言いました。
「105号室へ移動してくれ。新人の出世部屋だ。俺は、広池に使って欲しい。お前みたいに苦労を重ねてきた人間が活躍することが、夢を与えると思う。頑張ってな!」
例年ならドラフト1位指名の選手に与えられる部屋に私が住むことになりました(東出ゴメン)。光栄なことです。吉田さんもそうですが、私は、この挑戦の間、本当にたくさんの人達に支えられてきました。私が、プロ野球選手になれたのは、そういった方々のお陰です。市民球場での入団テスト受験を決意して以来、様々なことがありましたが、その経験はドラフト指名という実際の成果と同様に私にとって掛け替えのないものです。こういったいきさつを経て入団した私は、誰よりも感謝の気持ちを持ってプレーするプロ野球選手であるべきであると今でも思っています。
ドラフトから約1ヶ月後、広島市内のホテルで入団発表が行われました。そこでついに私は、憧れのカープのユニフォームに袖を通しました。背番号は「68」。球団が保有できる選手の上限が70人であることを考えると、かなり重たい番号ではありましたが、それがかえって闘争心をかき立てました。
「今は、下のほうかも知れないけど、努力して評価を変えていこう。そして、いつかはもっと軽い番号を背負って投げるんだ。」
私は、心の中で固くそう誓いました。
松田耕平オーナーと達川監督を中心に、東出、井生、矢野、森笠、新井、小山田、酒井、そして私の同期8人が手を合わせて写っている写真は今も誇らしげに実家に飾られています。
感謝の心、我慢、体の強さ、前向きに生きることの大切さ。この「入団への道」は私に様々なものを与え、教えてくれました。今年、プロ入り10年目、35歳。何も持っていなかった私がここまでやってこれたのは、この道のりを辿ってきたからこそ。プロ入りを熱望しながらも長い間叶わなかった。しかし、だからこそ経験できた濃密な時間。私は、プロのユニフォームの尊さを知るプロ野球選手となり、10年目を迎えた今も、毎日、感動と喜びに溢れてプレーしています。この気持ちが私を支える原動力。それは、この「入団への道」が与えてくれた掛け替えのない財産です。
「入団への道」完結です。お付き合い頂きありがとうございました。

今日は、由宇球場で練習を行いました。
野手は午前中に守備練習を行った後、昼からは徹底的に打ち込み。投手は、午後からの自主練習の時間を使って、各々の課題克服に汗を流し、有意義な時間を過ごしました。残りのゲームに向けて、チームは気合いが入っています。もちろん私も。明日も、いい練習をしてサーパスとの3連戦に備えたいと思います。
それでは今日は、「入団への道」の続きをお話しします。前回は、長かったドミニカ滞在を終え、飛行機に乗り込んだところまでお伝えしました。
飛行機は、3時間程で経由地であるニューヨークに到着しました。8ヶ月以上常夏の国で過ごした私にとっては、ニューヨークの秋の風は驚くほど冷たく感じました。今日は、空港に程近いホテルで一泊して、翌日の飛行機で日本に向かいます。
夕食は、私と同じ旅程で帰国する田中さんと、ホテル内のレストランで済ませることにしました。私達がテーブルに座ると、英語とスペイン語の2種類のメニュー表が用意されていました。ここニューヨークは、中南米の人達が多くいる為、特に、空港近くの施設にはこういった配慮があるようです。私は、スペイン語のメニューを手に取り、ウエイターにスペイン語で注文をしました。すると、ウエイターは、
「おー!!あなたは、スペイン語を使えるのですか!」
と凄く喜んでいました。どうやらこのウエイターも中南米出身で、アジア系の私が、スペイン語を話したことがとても意外であり嬉しいことだったようです。その後、ノリノリのウエイターのお陰で、とても楽しい時間を過ごすことができました。早速、ドミニカでの滞在が私に小さな幸せを運んでくれました。やっぱりドミニカへ行くことができてよかった。感謝です。
食後は、1人でホテルの庭に出て、目の前の滑走路を眺めていました。ニューヨーク・J・F・K国際空港は、とても大きな空港で、1年前まで航空会社に勤めていた私でも初めて見るような飛行機が、国内外へ向けて次々と飛び立っていきました。「飛行機が好きだから、飛行機のそばで働きたい。」という理由で全日空に入社した私にとっては、まさに絶景でした。「あの飛行機はどこへ行くのだろう。」そんなことを想像するだけで、ワクワクしました。いやがおうでも盛り上がる帰国へ向けての高揚感。それと同時に、ドミニカをついに離れたことへの寂しさが心の奥底に潜んでいることに気付き、私にとってドミニカがどれだけ大切な場所になったかを知ることになりました。ドミニカと日本との経由地で、両国への想いに浸りながら、私は、いつまでもいつまでもその場に留まり、飛行機を眺めていました。
翌日、遂に帰国の日を迎えました。朝の10時過ぎに空港に入り、手続きを済ませた後、ゲート近くで見慣れた「ANA」の飛行機を目にした時、何だか凄くホッとしました。そして、日本で行われる最後の厳しいテストへの恐怖心にも似た感情によって封じられていた帰国への想いが、このタイミングでドッと溢れてくるのを感じました。
「早く日本に帰りたい。そして、やってきたことを信じて、堂々と最後の勝負だ。」
私は、前向きな気持ちを取り戻し、機上の人となりました。
ニューヨークから成田までは、気流の影響もあり、行きより長い14時間を要します。私は、満席の狭い機内で、隣の人に触れることがないように大きな体を丸めながら、一睡もせずに起きていました。何度か眠ろうと試みましたが、興奮でとても眠れる状態ではありませんでした。
長い長いフライトを経て、飛行機はようやく成田空港に着陸しました。日本語の案内板があります。ここは日本です。遂に帰って来ました。私は、一緒に帰国した田中さんに丁重にお礼を言って別れた後、空港内の床屋さんに直行しました。ドミニカで苦労したことはいろいろありましたが、その一つがなかなか思い通りにならない髪型でした。ドミニカでは、住んでいたアパートの近くにある床屋に通っていましたが、何度説明しても、いかつい角刈りにされるし、
「もみあげはそのままにしておいて。」
と言っても、ちょっと油断した隙にバッサリ切り落とされるのは毎度のことで、正直怒りさえ覚えましたが、悪気はなさそうなので仕方ありません。まあ、別にオシャレなほうではないので、たいした問題ではなかったのですが、さすがに、角刈りが伸びて、黒いマリモみたいになった頭で日本の街を歩くわけにはいきません。ドミニカの床屋で苦い思いを重ねてきたので、成田空港の床屋さんは、日本語も話せるし天国のようでした。約30分後、私は何とか日本で通用する髪型に戻り、空港を後にしました。
帰国した翌日から3日間、私は、休みをもらっていました。休みの間は、家族に抱えきれないくらいの土産話をしたり、大好きなラーメン屋さんに行って、久しぶりのその味に涙したりして、心身共にリフレッシュしました。
迎えた9月23日。私は、いよいよ最後のテストを受ける為に広島に向けて出発しました。これから、ドラフトまでの約2ヶ月間、大野寮(ファームの寮)に住まわしてもらい、ファームの秋季練習とキャンプに参加します。夕方に寮に着いてすぐ、達川監督をはじめとするスタッフの方々、寮長、そして、何人かの選手に挨拶をしました。達川監督は、
「おっー!帰って来たか。いつから、練習するんだ?明後日からか。全部一緒にやってもらうからのう。お客さん扱いはせんけーの。」
私は、その言葉を聞いて身が引き締まる思いでした。それと同時に「お客さん扱いはしない」という言葉に大きな喜びを感じ、強い闘志が心の奥底から沸き上がるのを感じました。準備OKです。私は、今の精神状態ならこれから始まる大事な2ヶ月を乗り越えられると直感的に感じました。
翌日は、帰国の報告の為に、市民球場内にある球団事務所に出向きました。はじめは育成部へ行き、阿南さんと田中さんにお会いして、ドミニカでの話に花を咲かせた後、松田耕平オーナーの部屋に行きました。私が、緊張しながらも帰国の報告と施設を使わせてもらったお礼を済ませると、オーナーは、
「話は聞いてるよ。頑張ったね。頑張ったね。本当によく頑張ったね。」
と、優しい笑みを浮かべながら、私の労をねぎらって下さいました。心が温まるというのは、まさにこのことであると思いました。繰り返された「頑張ったね。」という言葉を聞く度に、私の心の中に、オーナーが愛してこられたカープへの熱い情熱が注がれていくのを感じました。オーナーに力を頂いた私は、ドミニカ行きを勧めて下さった松田元常務(現社長)にも同様に温かい言葉を掛けて頂いた後、幸せな気持ちで市民球場を後にしました。日本にも私のことを気にかけていた人がいることが分かり、私のやる気は頂点に達しました。
翌日、私は、秋季練習に合流しました。テスト生の為、大学時代の練習時に着用していた上から下まで真っ白なユニフォームでグランドに立ちました。監督、コーチ以下全員がカープのユニフォームを着ている中で、やはり相当目立っていて、若い選手に「25歳半人前。」などと茶化されて悔しい思いをしましたが、恥ずかしさはなく、逆に大きな反骨心が芽生えました。
「来年は絶対にカープのユニフォームを着て見返してやる!」
私は心の中でそう誓いました。
ファームはその時点で既に公式戦を終えていたので、翌年のシーズンを睨んで厳しい練習がスタートしていました。達川監督の「胃から汗が出るまで鍛え抜く」方針のもと、その練習は、前年とは比較にならないほどハードなものになっていました。午前中は永遠に続く走り込み。キャッチボールにたどり着くのは昼食後という厳しい毎日が続きました。ドミニカでやるべきことは全てやってきたつもりでしたが、やはり辛かったです。しかし、弱音は吐けません。私は、必死に毎日の練習に取り組みました。
今日は、ここまでにします。次回は、いよいよこのシリーズも最終回を迎える予定です。今回も、長い文章にお付き合い頂きありがとうございました。

今日は、2週間ぶりに完全休養して、疲れを癒しました。それでは今日は、書き溜めておいた「入団への道」の続きを投稿します。
前回は、チームメイトの信頼を取り戻す為に、体調がすぐれない中必死に投げ抜き、2度目の完封勝利を収めたところまでお伝えしました。
苦しい中でも結果を残すことができたこと、些細な口喧嘩が原因で失いそうになったチームメイトとの信頼関係が無事に修復できたことで、精神的に上向きました。それに伴って、体調も回復。8月に入ってからは、相変わらずの暑さの中でも以前のように明るく元気良くグランドに立てるようになりました。
しかし、一難去ってまた一難。私は、左の脇腹を痛めてしまいました。痛みを覚えた翌日の試合は、相手チームの力不足もあり、15個の三振を奪い、86球という少ない球数でドミニカに来て3度目の完封勝利を飾り、さらに、中6日で登板した次の試合は7回無失点でドミニカに来て10勝目を挙げましたが、その後、痛みは悪化。ついに、しばらくの間、ノースローを強いられる事態となってしまいました。
「大事な時期なのに何故こんなことに・・。」
さらに、運が悪いことに、私の日本への帰国の日程が当初よりも1ヶ月程早まり、9月17日にドミニカを出国することに決まってしまいました。どうやら早めに帰国させて、ファームの秋季練習に合流し私の力を見極めることになったようです。私は焦りました。
「もう1ヶ月も残っていない。帰国した時に、投げられませんなんて言える訳がない。」
とにかく治して投げられるようにするしかありません。毎日、祈るような気持ちで過ごしました。少し痛みが引いてからは、ランニングやウエイトトレーニングなどをできる範囲で黙々とこなしました。そんな、私の姿を見て上之さんは、
「浩司、焦っちゃ駄目だ。まずは、治すことが最優先だぞ。」
と繰り返し言い、平山さんは、
「大丈夫。大丈夫。あんなに頑張って来たじゃないか。きっといいことがある。大丈夫。」
と、励ましてくれました。一方、田中さんは、
「そんな怪我はたいしたことない。唾つけときゃ治るよ。」
と意に介さず、軽めの練習しかできない為、時間を持て余している私をつかまえて、野球に関する様々な話をしてくれました。その内容は、捕手出身ならではの配球論から、練習方法に至るまで多岐にわたりましたが、1番印象に残っているのは、
「投球フォームに個性があるのは当たり前。結局のところは、自分の投げやすい投げ方で勝負するのがいちばんいい。それに、観ているほうも、みんなが教科書通りのフォームで投げていたらつまらんじゃろ。」
という言葉でした。この言葉は今でも私の心の中にあり、迷った時にひとつの支えとなっています。
三者三様の励ましを受けながら、私は怪我の回復に努めましたが、志願して登板した9月1日の練習試合が原因で軽い肩痛まで併発してしまい、再びノースローの日々を送ることになってしまいました。試合での登板に最後まで反対した上之さんに顔向けができず、迫り来る帰国の日のことを考えると、強い絶望感に襲われました。もう本当に休むしかありません。ちょうどこの時期に、わざわざ日本から応援に来てくれた、大学時代の野球部の同級生に元気なところを見せられなかったことも私の気持ちを更に暗いものにしました。
練習メニューは限定され、鬱憤は溜まりましたが、それを少し発散させてくれたのが水泳でした。ある日、泳いでも痛みが出ないことに気付き、2時間ぶっ続けで泳ぎ続けました。冷たい水がほてった患部を冷却し、癒してくれているような感じがして気持ちが落ち着きました。
上之さんも、私を気遣って車で観光に連れ出してくれたり、家に招いて奥さんが作った日本料理を食べさせてくれたりしました。本当に有り難かったです。
上之さんをはじめ、周りの人達の支えのおかげで、私の体は徐々に回復していきました。効果を実感して以来、毎日続けた水泳も、怪我の回復と体力の維持に一役買いました。
そして、最後の登板から8日目の9月9日。私は軽いキャッチボールを再開しました。痛みはほとんどなく、慎重に段階を踏んでいけば、帰国後の秋季練習時には投げられるようになるような気がしてきました。
迎えた9月11日。この日は、日本に練習生として派遣されるドミニカ人選手が発表される日です。ドミニカ人選手がカープとの正式契約にこぎつける為には、まずは、このメンバーに選ばれて秋季練習とキャンプで力を認めてもらう必要があります。また、この日が終わるとアカデミーはしばらくの間休暇に入るので、日程上、私がアカデミーのみんなと練習をするのは最後となります。
朝から私は、極力たくさんの選手に話しかけて会話を楽しみました。特に、ドミニカに来て以来、キャッチボールやランニングなどのメニューを共にし、一番仲良くしてくれた、アバ投手とは、いつも以上にいろいろな会話をしました。アバはとても性格が良く、異国の地で野球をする私を気遣って、常に明るい笑顔で接してくれました。グランド上では日本人は私一人であり、特に最初の頃、言葉の違いや練習方式の違いに戸惑っていた私を助けてくれたのが彼でした。
練習はいつも通りに進んでいるように見えましたが、練習後の日本行きの選手発表の時間が近づくにつれ、主力選手の間には、明らかにいつもとは違う緊張感が漂っているように感じました。アバも少しずつ無口になってきました。私は、口には出しませんでしたが、心の中ではアバが選ばれてくれるように願っていました。そして、ついに最後の練習メニューが終わり、シャワーを浴びた後、選手は皆、寮のロビーに集まりました。
私は、てっきりみんなの前で渡日選手の発表が行われるのかと思いましたが、そうではなく、選手が個別に部屋に呼ばれて、首脳陣から今後の契約の件も含めて説明を受けてロビーに戻って来るという形でした。
ロビーは、張り詰めた空気に包まれていました。部屋から戻って来た選手の中には、願いが叶わず悔し涙を流す選手もいました。日本へ行ける選手はごく少数です。アバも残念ながらそのメンバーに入ることはできませんでした。しかし、彼は涙を流すことはなく、私に言いました。
「HIROIKE、日本へ行っても頑張って。本当に頑張って。幸運を祈ってるよ!」
こんな状況で人のことを気にかけるなんて本当にいい奴です。私達は固く握手を交わしました。その後、ロビーにいた全選手に別れの挨拶をして、握手をしました。考えてみると、ここにいるほとんどの選手とは、今日が一生の別れとなります。私が、ほぼ地球の真裏の日本へ戻ってしまえば、会うことはもちろん連絡することもできません。今日まで毎日のように顔を合わせてきた仲間ともう二度と会うことができない。そう思うととても切なくなりました。
私は、全ての選手が帰るのを見送り、最後に上之さんとロビーを出ました。
「上之さん。自分は恵まれていることが分かりました。願いの叶わなかったみんなの分もこれから頑張ります。」
一連の出来事を目の当たりにした、偽ざる気持ちが口をつきました。
「そうだな浩司。これからが勝負だぞ。」
私達は車に乗り込み、アカデミーを後にしました。
2日間の休養を挟んで、ドミニカでの残された練習日はたったの3日間。キャッチボールを再開してからまだ日が浅いので、どこまで仕上げて日本に戻ることができるのか。非常に重要な意味を持つ3日間です。
その1日目。6割くらいの力でキャッチボールをして、復活への手応えを掴みました。
2日目。2週間ぶりのブルペン入り。立ち投げのみではありましたが、痛みは全くなく、球にキレもあり一安心。
そして、ドミニカ最後の練習日。9月16日の私の日記にはこう記されていました。
[最終日。久しぶりに全力でピッチングをした。不安なし。ストレートの力、変化球のキレ、コントロール。その全てがドミニカに来て最高だった。今までやってきたこと、自分の想い、そして私をここで支え続けてくれた人達の想いが、最後の最後に形になったように思う。間に合った。帰国へ向けて準備は整った。ドミニカとも明日でお別れ。住み慣れた感じさえするサント・ドミンゴの街から離れるのが寂しい。見慣れた青いカリブ海ももう見ることはできない。いろいろあったが、ドミニカはとてもよいところだった。ここで過ごした時間は、一生の財産だ。さあ、日本へ。夢に向かって全力投球だ。]
ドミニカでの滞在も残り数時間。私は、日付が変わっても尚、荷物を整理したり、部屋の掃除をしたりしながら、物思いにふけっていました。まずは、怪我を克服して、いい状態で帰国の日を迎えることができたことに対し大きな安堵感を覚えました。振り返れば、比較的順調だった中盤までと比べて、終盤は体調不良や怪我が重なり苦難の連続でした。しかし、ここでの苦労した経験が、その後の怪我や病気とは無縁の強い体を作り上げたように思います。
ドミニカに来ることができて本当によかったと思っています。何より、投手経験のない私が、多くの実戦登板を経験することができました。30試合、120イニングを投げた経験が、初心者同然の私にとってどれほど大きなものだったか。また、暑い中での走り込みやウエイトトレーニングの成果が出て、2年近く本格的な運動から離れていた為に鈍っていた体をプロのレベルまで引き上げることに成功しました。もし、私がドミニカに来ることなく、プロ入りしていたらどうなっていたでしょうか。恐らく、周りのレベルについていけず萎縮し、周りに追い付く為に無理をして、心にも体にも大きな傷をおって、選手生命を縮めていたことでしょう。ドラフト指名されなかった為に来ることになったドミニカですが、私には、必要不可欠なステージでした。それは、決して遠回りではなく、長く野球を続ける為の最短距離であったように思います。
帰国の日を迎えました。空港まで見送りに来た上之さんは、今まで見たこともないくらい寂しそうな顔をしていました。小柄な体が、いつもよりさらに小さく見えました。普段ならシャキッと伸びている筈の背筋が、今日は心なしか丸まっていました。
「上之さん。本当にありがとうございました。お世話になりました。」
私は、もっともっと色々なことを言いたかったのに、感極まって当たり前のことしか言えませんでした。
「浩司。よく頑張ったな。お前さんの頑張る才能は誰にも負けない。夢は叶う。自信を持っていけばいい。」
上之さんも、いつもとは少し違うゆっくりとした口調で話しました。
「はい。必ずいい報告ができるように頑張ります。あの・・。日本に着いたら必ず電話します。」
「うん。待ってるぞ。」
「ありがとうございました・・。本当に・・。ドミニカで最後まで頑張れたのは上之さんのお陰です。また、必ずお会いしたいです。その時までに、もっと成長しておきます。」
「うん。楽しみにしてるぞ。わしも浩司の成長を見るのが楽しかった。ありがとう。」
私は、上之さんと固く握手をして、飛行機に向かう改札を通り、もう一度振り返って、深々と頭を下げました。この瞬間に今まで堪えてきたものが、一気に溢れそうになりましたが、ぐっと我慢して、笑顔を作って手を振りました。上之さんも笑顔でしたが、確かに目に涙が溜まっているように見えました。私は、振り返って飛行機に向かうボーディングブリッジを歩き始めましたが、ついに涙を堪えることができなくなり、俯きながら飛行機に乗り込みました。
私のドミニカ共和国での生活は、上之さんをはじめとした周りの人達の支えがあったからこそ成り立ちました。野球の技術的な成長、体力面での成長、異国の地での生活により培った精神面での成長、そして、たくさんの人に支えられて生きたことによって生まれた感謝の心。8ヶ月以上に及んだドミニカ共和国での生活は、私に様々なものを与えて、ここに幕を閉じました。経由地ニューヨーク行きの飛行機が、ゲートを離れ離陸する時、心の中で、でも体温の上昇を感じる程の大きな声で、「ありがとう!」と叫びました。
今日は、ここまでにします。長い文章にお付き合い頂きありがとうございました。

今日は、昨日の長時間のバス移動の疲れを考慮し、軽めの練習が行われました。しかし、私は、テイクバックの際に「間」をとり、開きを抑えることを意識して、通常より多めのキャッチボールを行いました。明日の試合で登板があれば、この形で投げられるようにしたいと思います。それでは今日は、高知遠征の移動中に仕上げた「入団への道」の話の続きをご覧いただきたいと思います。
前回は、ドミニカ共和国での初完投を完封で飾り、その夜、阿南さんにご馳走になり、とても楽しい時間を過ごしたところまでお伝えしました。
7月に入りました。当然のことながら、暑さは続きます。しかし、完投をしたことが、私に大きな自信と更なる意欲を植え付け、次第に投球内容が向上してきました。この頃までに、日本から持ち込んだ技術書を参考に練習を重ねてきた、スライダーの完成度が高まり、試合で威力を発揮するようになりました。モデルにしたのは、桑田さん(当時巨人)のスライダーです。この球は、それまでに投げていたカーブに近い変化球と違い、曲がりが小さい分コントロールがしやすく、球速があるために、打者がストレートが来たと思って反応してくれました。自信を持って投げられる変化球を得たことで、ストレートで打者を打ち取るケースも増えてストレートにも自信がついてきました。新球習得による相乗効果です。
少しずつですが、阿南さんの口からも、登板後にお褒めの言葉が出るようになりました。そしてついに、
「浩司、今日は良かったぞ。今日のフォームを忘れるな。」
という嬉しい言葉を引き出すことに成功したのが、7月2日に行われた紅白戦後のことでした。この日は、ストレート、スライダー共にキレがあり、3回を1安打8奪三振という内容でした。
振り返ると、阿南さんがドミニカに来て下さったことは、とても幸運でした。その独特なクールな雰囲気と、求めるレベルの高さが、私にいい緊張感を与えてくれました。この時期の私の成長に阿南さんの存在が影響を及ぼしていたのは間違いありません。阿南さんは、私に、
「ストレートだけで勝負する試合を作ってみろ。」
という宿題を残して、7月15日に帰国されました。最後の宿題は、粗さはあるものの、身体能力が高く、ストレートに強いドミニカ人選手を相手にはなかなか難しいものでした。しかし、私の投球に成長を認めたからこそ出した宿題であると考えると、意気に感じて、また新たな意欲が沸いてきました。投手の基本はストレート。ストレートを磨くことがレベルアップに不可欠であることを伝えたかったのだと思います。阿南さん、本当にありがとうございました。
阿南さんに変わってドミニカにやって来たのは、田中尊さん。田中さんは、かつてのカープの正捕手。現役引退後は、コーチとして古葉、阿南両監督を支え、チームをリーグ優勝、日本一に導いた名参謀でした。これまた凄い人です。
田中さんは、阿南さんとはまた違ったタイプで、思ったことは、ストレートに言って下さる方でした。
「なんじゃあそりゃ!」
「あかん!あかん!」
「ただ投げればいいって訳じゃないぞ!頭を使わんか!」
厳しい言葉もたくさんいただきました。また、現役時代の捕手の経験を生かして、配球面や投球フォームに関することまで、様々なことを教えていただきました。
最初は、ちょっと怖い人だと感じましたが、次第に、裏表のない、ストレートな性格の田中さんが好きになりました。そして、あるとき、口では厳しいことを言っていながら、目は常に笑っていることに気付きました。優しい人なのです。そんな優しい田中さんも、これから迎える厳しいドミニカでの終盤戦を支えて下さった恩人です。
7月の後半、私の体に異変が起きました。まず最初は、風邪のような症状が1週間以上続きました。体が怠く苦しい状態が続きましたが、熱は無かったので、練習に参加し続けました。次の異変は、練習のない休養日に起きました。起床して、朝食を摂り、部屋で横になっていると脚に蚊にさされた跡のようなものがたくさんあることに気付きました。
「何だこれは!?」
そう思っていると、それは短時間で全身に広がりました。
「これはまずい。どうしよう・・。」
不安な気持ちになりました。ドミニカに来てから、医者にかかったことがなかったので、病院がどこにあるかも分かりません。助けを呼ぼうと思いました。しかし、少し考えて思い留まりました。この1週間ずっとそうでした。体調がすぐれないことをずっと隠して練習に参加し続けました。体は悲鳴をあげています。でも、誰にも打ち明けられない理由がありました。私は、テスト生です。ドミニカでの練習の内容や試合での結果及び自己分析を、週に1度、FAXで日本のカープ球団に報告することを上之さんから義務付けられていました。ドラフト候補を絞り込む大事な時期に、「体調不良の為、練習を欠席」などと報告書に書く訳にはいきません。ドラフト指名に向けてマイナス材料になるようなことは一切したくない。そんな考えが私を支配していたのです。
私は、その日一日をじっと部屋で耐え忍びました。じんましんだったのでしょうか。病名は病院へ行かなかったので分かりませんが、幸いなことに夕方になると少しずつ治まってきました。気持ちが張っていたので気が付きませんでしが、半年を超えた慣れない異国の地での生活、そして、何よりとどまることのない暑さが、私から少しずつ体力を奪っていたのだと思います。
この日、ドミニカに来て以来初めて日本が恋しくなりました。プロ入りへの強い執念によって封印されていた想いが、体力の低下と共に堰を切ったように流れ出すのを感じました。
「弱気になっては駄目だ。俺はまだ大丈夫。野球がやりたくてもできなかった時の気持ちを思い出せ。」
私は、後ろ向きな気持ちを再び自分の中に封印するために、誰もいない部屋で声を出して言いました。
翌日、何とか気力だけでグランドに立っていました。そんな時は悪い流れが続くもの。私は、チームメイトの一人、サンターナと些細なことで口喧嘩をして、彼をグランドから追い出してしまいました。彼は、アメリカのマイナーリーグでのプレー経験があり、ドミニカ人選手の中ではいつも輪の中心にいるような人物でした。確かに普段から何かとちょっかいを出してくるようなところはありましたが、いつもなら笑って聞けるようなことが、その日は聞き流すことができませんでした。この頃までに飛躍的に上達してきたスペイン語のヒヤリング力もこの時ばかりは、悪いほうに作用してしまいました。普段の言動から、彼に悪気はないことは明白でした。しかし、体調がすぐれないこともあり、私に余裕がなかったのです。全体練習後の自主練習の時間であったとはいえ、私に彼をグランドから追い出す権限などあるはずもありません。何と大人げないことをしてしまったのでしょうか。グランドから出ていく時のサンターナの苦笑いを浮かべた顔と、周りの選手の当惑した顔を思い出すと、
自分がとってしまった行動を後悔してもしきれませんでした。心の支えだったチームメイトが私から離れていってしまうのではないかと思うと、鋭利なもので引き裂かれたかのように心が痛み、心身ともにボロボロの状態で自分の部屋に戻りました。
その翌日の7月28日の試合に私は先発しました。非常に厳しい状況でしたが、私はやらねばなりませんでした。チームメイトの信頼を取り戻す為に。この日に限っては、自身のプロ入りに向けての課題克服よりも、必死で投げることによって、今までと何も変わらない、勝つ為に一生懸命頑張るHIROIKEの姿を見てもらうことしか頭にありませんでした。
相変わらずの暑さの中、途中、意識がもうろうとする場面もありましたが、気力だけで投げ抜いて、18個の三振を奪い完封勝利を収めました。試合後のハイタッチ。みんなはいつもと変わらぬ、いやそれ以上の満面の笑みで迎えてくれました。本当にいいチームメイトに恵まれました。私が昨日のことを気にして、朝からずっと無口だったのを心配していてくれたようです。サンターナとも笑顔でハイタッチ。そのタイミングで私から口を開きました。
「昨日は、ごめん。」
すると、サンターナは、
「全然気にしてないよ。それより、今日は今まで見た中で一番凄かった。ナイスピッチ!」
と言い、握手を求めてきました。私達はその場で固く握手を交わしました。
体はグッタリ。でも昨日とはうって変わって晴れやかな心をたずさえて自分の部屋に戻りました。
窓から見える夕焼けと、それを受けて鮮やかな光を放つカリブ海を眺めていると、胸から熱いものが込み上げ、自然と涙が溢れてきました。
「よかった。本当によかった・・。」
私は、そのままベッドに横たわると、全身を支配した安堵感に包み込まれるように眠りにつきました。
今日は、ここまでにします。次回は、日本へ帰国するところまでお話しできたらと思います。

今日も、ナゴヤ球場でウエスタンリーグの中日戦が行われました。
試合は、1対1の引き分け。連投していたこともあって私の登板はありませんでした。
非常に暑い中でしたが、この名古屋での3連戦は、いずれも接戦で内容の濃いゲームでした。こういった試合を続けることが、チームのそして、選手の力となると思います。
明日からの、由宇での3連戦も、個人的にもチームとしても良い戦いをしたいと思います。
随分久しぶりになってしまいましたが、今日は入団への道の続きをお話しします。前回は、ドミニカに阿南さんがやって来て初めての登板で、会心の投球ができたところまでお伝えしました。
ドミニカに来て、15試合目の登板で、今までで一番の手応えを得ました。一時期の低迷を抜け出して、1つの壁を越えたような気がして、何をしていてもとても明るい気分でした。
しかし、その登板から2日後の5月16日。明るい気分を一変させる悲劇が起きてしまいました。
カープアカデミーの打撃コーチのリナレスさんが、交通事故の為、亡くなりました。リナレスさんは、メジャーリーグでも活躍された偉大な方で、メジャーを退いた後も、母国ドミニカのウインターリーグで50歳を過ぎても現役でプレーしていたという逸話の持ち主で、私が出会った最初の鉄人でした。性格はいたって温厚で、選手からよく慕われていました。
ショックでした。前日まで同じグランドで、同じユニフォームを着ていた人間が、今日、突然いなくなる。考えもしなかったことです。キスケージャという町にあるリナレスさんの自宅へ行き、遺体と対面しました。そこには屈強な鉄人の面影も、控えめで優しさに溢れた笑顔もない変わり果てた姿がありました。私は言葉を失いました。
その後は、リナレスさん宅を離れ、事故現場へ向かいました。リナレスさんの青い車は、道端で真っ二つに裂けていました。聞けば、雨によってスリップした車は、制御を失って道端のヤシの木に激突したとのことです。ドミニカの道路は、雨が降ると非常に滑りやすく危険です。しかも、南国特有のスコールが時期によっては毎日のように降るので、このような事故は後を絶たないと上之さんが教えてくれました。私も、アパートからアカデミーまで、毎日往復2時間近くをかけて車で通っています。これは、人ごとではありません。そう考えると、リナレスさんが亡くなったショックと合わさって、背すじが急に寒くなりました。
無残な姿となってしまったリナレスさんの車を、長い時間見ていることができなくなった私は、手を合わせてその場を離れました。
翌日、リナレスさん宅で葬儀が行われました。開始時間が早まったにも関わらず、2000人以上の人がそこに集まりました。静かな田舎の町では異例の大きな葬儀となり、故人の偉大さを改めてうかがい知ることになりました。
葬儀の間、私はアカデミーの選手と一緒に過ごしましたが、みんなの顔にいつもの笑顔はなく、一様に虚ろな表情を浮かべて口を開く者もいませんでした。
その翌日から、アカデミーでは悲しみを乗り越えて練習を開始する予定でした。監督、コーチ、選手全員が集合してリナレスさん宅へ行ってお祈りをした後、グランドに戻ると、ある選手が口を開きました。
「今日は、練習する気分ではない。」
そう言うと、その選手は寮のほうへ戻ろうとしました。すると他の選手もそれに追随してグランドに背を向けて歩き始めました。監督は慌てて彼らを説得しました。しかし、再三にわたる説得も受け入れられることはなく、結局、その日の練習は中止となりました。
一人グランドに取り残された私は、複雑な思いを抱きながらランニングなどで汗を流しました。
「練習をボイコットしても、リナレスさんは喜ばない。」
私はそう思いました。はじめに口を開いて、ボイコットの方向にみんなを誘導したのは、契約選手。つまりアカデミーから給料を貰っている選手です。悲しみは理解できますが、練習を休むことが誰の為にもならないことに気づくべきです。プロ意識の感じられない行動をとってしまった仲間達に、私は少し失望しました。
深い悲しみを乗り越え、再出発しました。私にできることは、グランドで頑張ること。そして、あえて明るく振舞うこと。そう心に決めました。いつまでも下を向いていても故人は喜ばないと感じたからです。練習をボイコットした選手達も、翌日にはグランドに戻ってきました。6月に入って暑さはますます厳しくなってきましたが、阿南さん、平山さん、そして、上之さんの熱心な指導を受けながら、私は、野球に取り組みました。体力がついてきたと判断した首脳陣は、私の試合での投球回数を増やしていきました。そして、迎えた6月10日。私は、前日に完投を目指すように命じられ、灼熱の太陽の下、マウンドに立ちました。正午プレーボールの練習試合。天気は快晴。試合前に私は、ブルペンで30球程のピッチング練習を行いましたが、それだけでもう全身汗だくでした。
「あ、暑い・・。完投できるかな・・。」
あまりの暑さに少し不安になりました。そうでなくても9回を投げ切るということは、未知の世界です。私は、不安を抱えつつ、投球に備えマウンド上をスパイクでならしました。その時です。私は変なことに気づいてしまいました。
「あれ!?影がない。」
恐ろしい程強い南国の日差しを浴びているにも関わらず、足元には一切自身の影が見当たりません。
「なぜ・・・?あっ!そういうことか!」
疑問は数秒で解決しました。ここドミニカ共和国は、北回帰線の内側です。この時期(6月)の正午、太陽はどの方角に傾くことなく真上から私達を照らします。だから、影はできないのです。太陽が必ず南に傾いたところから照らす日本に生まれ育った私にとっては、これは衝撃的でした。
「これは、暑くて当然だな。」
そう思うのと同時に、僅か数秒で影のない理由を解明した自分を素敵に思いました。
「頭は冴えてるぞ。今日は案外いけるかも。」
予感は当たりました。序盤は、完投しなければいけないという思いがプレッシャーに変わってしまい、体の動きが悪かったのですが、後半、暑さと疲れでフラフラになってから、体を柔らかく使ってキレのある球をコントロール良く投げられるようになりました。
結果は、9回を投げ切って、被安打7、奪三振15、与四球3で無失点。相手打線の非力さに助けられた部分もあったとはいえ、初完投を完封で飾ることができたことは、嬉しかったですし、内容はともかく、投げ切れたことは、大きな自信になり、投手として1つステップアップしたような気分になりました。
その夜は、暑い中完投したことをねぎらって、阿南さんが私の大好きなレストランに連れていってくれました。
「浩司、内容はともかく、今日は暑い中よく頑張った。乾杯!」
阿南さんは、やっぱりあの程度では褒めてくれません。いつか、阿南さんが褒めてくれるような投球をしようと心に誓うと同時に、プロ野球の監督を務めたような人に、「浩司」と親しみを込めて呼ばれ、可愛がってもらっていることに対して、心の底から喜びが湧いて来て、料理はいつも以上に美味しく、何気ない話もいつも以上に楽しく感じ、疲れた体に程よく入ったアルコールと、完封した満足感も手伝って、最高に楽しい夕食になりました。何か、不安なことが一切なくなって、全てがうまくいくような気分になり、私は、帰り際に一人になった隙をついて、満天の星空に向かって吠えました。
「よっしゃあー!もっと頑張るぞー!」
その時見た星空は、それまでに見たどれよりも透き通り、何万光年も離れた星が、自分の手に届くところで瞬いているように感じました。同時に、一度は絶対に届かぬところへ行ってしまったプロ入りという自身の夢が、再び手に届きそうなところで瞬き始めたことを感じずにはいられませんでした。
今日は、この辺にします。近年の日本の真夏はドミニカより暑いように感じますが、頑張っていきましょう。

今日は、明日からの6連戦に備えて、大野練習場で軽めの練習を行いました。私は、この連戦をとても大事なものと捉えています。自分のすべきことに集中して、結果、内容ともに納得のいく投球をしたいと思います。
それでは連戦を前に、ドミニカでの出来事を思い出して、気分を高めていきたいと思います。少し長いですが、お付き合い下さい。
前回は、カープアカデミーがセマナ・サンタの休暇中の為、実戦登板から遠ざかるのを心配した上之さんが、サンディエゴ・パドレスアカデミーの監督と交渉して、私の実戦登板(先発)を実現させるという裏技に出たところまでお伝えしました。
「無理を言って投げさせてもらっておいて、みっともないピッチングをするわけにはいかない。」
市民球場での入団テスト以来、何も考えずポジティブにやってきた私が、初めてプレッシャーを感じました。
「いきなり、見ず知らずの日本人がやって来てピッチャーをやっている。守っている野手はどう思うのだろう?もともと先発予定だった投手は腹が立つだろうな。」
いろいろと考えてしまいました。
そして、迎えた4月8日。私は、あまり目立ち過ぎないように、下はカープのユニフォーム、上は地味な色のTシャツというスタイルで、パドレスの一員としてマウンドに立ちました。周りの選手は当然、パドレスのユニフォームで統一されています。私の願いとは裏腹に、やっぱり目立ちまくっています。
いつもとは違う緊張感がありました。力みも出ました。でも、周りの野手は盛り上がっています。みんな1球ごとに私に声を掛けてくれます。ダイビングキャッチもありました。キャッチャーも必死にリードしてくれています。ベンチも含めて、私を心から応援してくれているのが伝わってきました。
「野球って、やっぱりいいなぁ。」
私は、マウンド上で呟きました。周りの選手の掛け声を聞いたり、打球を必死に追う野手の姿を見ると胸が熱くなりました。見ず知らずの私ですが、今、私はみんなの一員です。みんなから力を貰って相手打者と対峙しています。
結果は、3回を投げて、被安打4、奪三振7で失点は1でした。降板後は、みんなから力を貰ったお返しに、ベンチから一生懸命応援しました。まだスペイン語で気の利いた声を出すことはできませんでしたが、手を叩いたり、ベンチに戻って来る選手をハイタッチで迎えたりしました。
応援したかいもあってチームは勝ちました。いつもとは違う緊張感を持って臨んだ試合だったので、勝利のハイタッチの味もまた格別でした。投球内容は決して満足のいくものではありませんでした。しかし、この日に関して言えば、それはたいした問題ではありません。それよりも、野球を通してこんなにたくさんの人と仲間になれたことが幸せでした。みんなと一緒にいたのは時間にすれば、僅か3時間足らずですが、もう何年も一緒に戦った仲間のように思えて、別れる時はとても寂しい気持ちになりました。
サンディエゴ・パドレスのアカデミーのみなさん。私は、みなさんと戦った、野球の魅力がいっぱい詰まったあの試合を、決して忘れません。本当にありがとうございました。
いろいろなことがあったセマナ・サンタ休暇も終わり、再び、カープアカデミーでの練習が始まりました。この時期の私は、投球フォームのことで悩んでいました。ドミニカに来て3ヶ月が経過し、これまでのように目に見える進歩がなくなっていました。良くなる為に、フォームの修正を重ねましたが、なかなかしっくりいかず、フォーム修正の為の投げ込みが、肩や肘を疲労させる結果になりました。
もどかしい日々が続きました。試合でもなかなか結果が出ず、多少焦りもありました。しかし、そんな低迷ぎみの私に、驚くべき情報がもたらされました。
「阿南さんがドミニカにやって来る!」
カープで監督まで務め、その後フロント入りした、あの阿南準郎さんです。驚きました。これは、のんびりしてられません。今の私の状態では、監督まで務めた方を満足させられる訳がありません。今までも必死にやっていたつもりでしたが、さらに気合いが入りました。阿南さんが来るまでの約半月、やみくもに投げるだけではなく、フォームをビデオに収めて検証したりして、野球について考える時間を増やしました。また自主練習の時間を大幅に増やして、その大半を走り込みに充て、下半身強化に今一度力を入れました。
成果は徐々に現れました。腕の振りがシャープになり、球のキレが出てきました。次第に自信も出てきて、投げることがまた少しずつ楽しくなってきました。
私は、その年のドラフトに指名してもらえるような実力をつける為にドミニカにやって来ました。その大きな目標に向かって日々努力してきたつもりでしたが、今思えば、それは比較的長期的な目標であり、少しでも油断するとややぼやけてしまうことがありました。しかし、阿南さんがやって来ることを知った時点で、私に大きな短期的な目標が出現しました。
「阿南さんが来るまでの半月で、ある程度のレベルに到達しなければ、その先の道は閉ざされるかも知れない。」
半月でやらなければならないことが決まったことで、逆算して、その日一日でやるべきことが明確になりました。
私はこの時、大きな目標を達成する為には、それを達成するまでの段階で、中期的、短期的なより具体的な目標設定が不可欠であることを学びました。当たり前のことであるかも知れませんが、それを身をもって体験できたことは、その後の生活に役立ちました。
このように、阿南さんは実際に顔を合わせる前から、私に多大な影響を与え、成長を促してくださいました。その後の直接指導も含めて、阿南さんも私にとっての恩人であることは間違いありません。
そして迎えた5月14日。ついに阿南さんがアカデミーにやってきました。
(私)「はじめまして、広池です。よろしくお願いします!」
(阿南さん)「おー、君か。今日の試合、投げるんだろ。じっくり観させてもらうよ。」
やっぱり、監督経験者。オーラがあります。身なりもキチッとしていて、その話し方も含めてスキがありません。身が引き締まる思いがしました。
しかもその日、私は先発予定です。気合いが入らない訳がありません。
結果は・・。やりました!4回を2安打、奪三振6の無失点。ドミニカに来て15試合目の登板でしたが、今までで最高の出来です。コントロール、ボールのキレ共に良く、ここ最近の練習の成果が形となって表れました。嬉しいです。
意気揚々と引き上げて、阿南さんと上之さんのところへ行くと、上之さんはニコニコ顔でほめてくれました。しかし、阿南さんは顔色を変えずに言いました。
「お疲れさん。まずまずだけど、もう少し腰で投げることをイメージしたほうがいい。あと、足を高く上げるのはいいが、後方に入り過ぎると投球の際の開きに繋がるから注意が必要だ。ブランクがあるのは分かっている。でも、それを言い訳にせず、もっとペースを上げなさい。」
と厳しいお言葉。やはり求めているレベルが違います。でも、今日の私は持てる力を存分に発揮しました。同時に、大きな自信を掴みました。阿南さんは、これから2ヶ月に渡ってドミニカに滞在され、私だけではなく、アカデミーの選手やコーチも含めて指導をされます。今日の感覚を発展させていけば、いつか阿南さんにも認めてもらえるような投球ができるのではないか。そんな希望を抱きながら、私は、アカデミーを離れました。
今日は、ここまでにします。次回は、この好投から2日後の、ある忘れられない悲劇からお伝えします。

今日、行われる予定だった、ウエスタンリーグのサーパス戦は、雨の為、早々に中止が決定しました。私たちは、新神戸から新幹線に乗って広島に戻り、13時から大野練習場で練習をしました。
今日は、110球の投げ込みと全身のウエイトトレーニング。盛り沢山の内容で充実した練習でした。雨によって試合での登板は実現しませんでしが、この1週間の練習内容はとても濃かったと思うので、必ず実戦でも成果が出ると思います。しっかり調整してその時を待ちたいと思います。
それでは、今日は入団への道の話の続きをさせていただきます。
ドミニカでの野球留学は、順調に滑り出しました。内容の良し悪しはあったものの、ウインターリーグでの4試合10イニングを無失点で切り抜けたことが、私のモチベーションを高めました。
ウインターリーグが終わり、試合がない期間が1ヶ月ほど続きました。私は、その期間を、体力強化とフォーム作りに費やしました。地道な練習の日々でしたが、上之さんと共に私に貴重なアドバイスを送って下さったのは、3月上旬にドミニカ入りされた、平山さんでした。この名前を聞いてピンときた方は、かなりのカープ通です。平山さんは、1955年から64年まで(62年から64年まではコーチ兼任)カープで活躍された日系アメリカ人で、小柄ながらも強肩と闘志あるプレーで、「フィーバー平山」の愛称で親しまれた選手でした。56年と58年にはオールスターにも出場されています。その平山さんは、私がドミニカにいた当時、カープの在米スカウトを務めていて、ドミニカにも定期的にやって来て、アカデミー選手の指導や能力のチェックをされていました。
その平山さんも、すぐに私のことを「浩司」と呼んでかわいがってくれました。平山さんからは、技術的なことはもちろん、精神的な面で前向きに生きることの大切さを教えて頂きました。現役時代の闘志溢れるプレースタイルが想像できないくらい、私の知る平山さんは、穏やかで、包み込むような優しい笑顔を絶やさない人でした。何よりも、平山さん自身が人生を楽しんでいる感じがにじみ出ていて、夕食時に大好きなビールを飲んでいるときの、その幸せそうな顔といったら、文章ではとても表現できません。平山さんは周りの人間を明るく、幸せな気持ちにさせてくれる力を持った人でした。
「いいねー、浩司!」、「頑張ってるなー、浩司!」、「大丈夫!」。
平山さんは、よく私を褒めてくれました。辛いときも、下を向かずに前を向いて生きる、ポジティブな思考を植え付けてくれました。平山さんもまた、間違いなく私の恩人です。
「辛いときも前を向いて生きる」。この精神無くして、この後のドミニカでの日々を生き抜くことは難しかったと思います。
投げ込み、走り込みを繰り返した1ヶ月が終わり、3月18日、久しぶりの実戦登板は、紅白戦でした。初回に力みが出て、ドミニカに来てはじめての失点。しかし、その後は立ち直り、3回を投げて、被安打4、奪三振6、与四球1、失点2という内容でした。ストレートに力強さがあり、トレーニングの成果が出た形となりました。上之さんからも、「2イニング目以降の投球なら、2Aでも充分に通用する。」と言われました。何か、こうやって具体的に言われると、とても嬉しかったです。
その後も、紅白戦に2試合登板して、迎えた3月31日。この日は、現在でも私の投球において重要な役割を果たしているフォークボールを修得した日として、忘れられない日となりました。この日行われた久々の対外試合で登板した私は、それまでキャッチボールや、ブルペンでのピッチングで練習を重ねてきたフォークボールを、試合デビューさせました。半年ほど前に、市民球場で行われた入団テストのブルペンで、調子に乗って適当にボールを挟んで投げた、あの「奇跡のフォーク」以来、練習すればいつかは強力な武器になると思って取り組んできました。今思えば、ボールを指に挟む動作が、まだぎくしゃくしていたので、癖がバレバレの状態で、ちょっと注意して見ていればフォークを投げるのがすぐに分かったと思いますが、細かいことは気にしない陽気なドミニカンは、思い切り空振りをしてくれました。その日は合計5球のフォークを投げましたが、うち4球が低めに決まりました。手応えありです。フォークを空振りした後の打者の顔が何とも言えません。快感でした。
試合を見守った上之さんも、「あれほどの角度のあるフォークを投げられる投手はなかなかいない。横浜の佐々木並だ!」と絶賛。
それにしても、あの大魔神並とは・・。上之さんそれはちょっと褒めすぎでは。でも、嬉しかったし、自信になりました。ありがとうございます!
ドミニカに来て3ヶ月が経ちました。4月の上旬は、セマナ・サンタ(聖週間・キリスト教の伝統行事)の休暇を挟んで、アカデミーは10日間ほどの休みに入りました。私は、上之さんの指示に従い、私が住むアパートの近くにある大きな公園で自主練習をすることになりました。
公園に行ってまず驚いたのは、野球をする人の多さです。木の実をボールに、枝をバットにして遊ぶ小さな子供から、ユニフォームを着用して、本格的な試合に熱中する大人まで、実に様々ですがみんな楽しそうです。また、草野球の試合が行われている球場の周りには、たくさんの人が集まって声援を送っています。プレーする人も、それを見る人も、みんな野球が大好き。顔にそう書いてあります。
ドミニカは、数多くのメジャーリーガーを輩出しています。テレビをつければ、いつもメジャーの試合が放送されています。その影響もあって、男の子は必ずと言っていいほど高い割合で、一度は野球に夢中になるそうです。完全に野球が根付いています。いい選手が次々と出てくるのも、この公園の熱気をみれば、頷けます。
私の練習内容は、キャッチボールやランニングといった基本的なもの。人数がいないので仕方ありません。もちろんそれがいちばん大切な練習であるのは間違いありませんが、フォークを覚えたり、ボール球を振らせるコツを掴みかけたりしていたその時の私にとって、実践登板も非常に重要でした。それだけに、このタイミングでチームが休暇に入ってしまったのは残念でした。
そんな私の気持ちを察してくれている人がいました。上之さんです。上之さんは想像もしていなかった大技を使って、休暇中の実践登板を実現させてくれました。
ある日、練習が終わる時間を見計らって公園に姿を現した上之さんが言いました。
「浩司、試合で投げたいだろ。」
「はい。」
私は、答えました。しかし、チームは休暇中なので、どうすることもできない。そう思っていたので、私は、少し残念そうに俯きました。その様子を見ていた上之さんは、何かを決心したようでした。
「ちょっとついておいで。」
上之さんは公園内を歩きはじめました。しばらく歩いてたどり着いたのは、野球場でした。グランドでは、サンディエゴ・パドレスのユニフォームを着た選手たちが練習をしています。公園がとても広かったので気がつきませんでしたが、パドレスのアカデミーはこの公園内で練習をしていたのです。上之さんは、監督らしき人に歩み寄って、何やら話しをはじめました。会話中、二人は時々、少し離れたところで立っていた私のほうに視線を送ってきます。会話はすぐに終わり、上之さんが私を呼びました。私が駆け寄ると上之さんが言いました。
「ここでやる明後日の試合で、投げさせてもらうことになった。先発で2イニングだ。」
「はい!?こ、ここでですか?」
思わず声が裏返りました。どうやら、この短時間で全く関係のない私が、1日だけパドレスの一員となって先発として投げることが決まったようです。監督らしき人がニッコリ笑って握手を求めてきたので、私も慌てて手を差し出して、丁寧に頭を下げました。
それにしても、驚きです。頼みに行くほうも凄いですが、あっさり受け入れるほうもまた凄いです。これも、おおらかなドミニカ流といったところでしょうか。心優しいドミニカ人と、それを育んだこの国がまた好きになりました。
そんな訳で、明後日は試合になりました。嬉しいことです。しかし、同時に強い緊張感も覚えました。
「無理を言って投げさせてもらっておいて、みっともないピッチングをするわけにはいかない。」
入団テストから今まで、「超」がつくくらいのプラス思考で突っ走ってきた私が、初めて陥った「失敗するわけにいかない」、「失敗したらどうしよう」という後ろ向きな感情でした。でも、今にして思えば、投手は皆、少なからず不安を抱えており、それを厳しい練習や強い精神力で打ち消してマウンドに登るものです。従って、この時、私が抱いた感情は、至って普通のことであり、私もようやく投手らしくなってきたといったところでしょうか。投手として初めて向き合った、そして絶対に越える必要がある壁です。この気持ちを乗り越えて、明後日、どれだけ強い心を持ってマウンドに立つことができるのか。私は、試されることになります。
長くなってしまいました。今日はここまでにします。お付き合いいただきありがとうございました。

今日は、降水確率100%の予報通り、福岡地方は一日中雨が降り続きました。試合は、中止になり、私たちは、昼過ぎからホークスの寮に隣接する、室内練習場で練習をしました。当初の予定よりやや投げる方の練習が多めになりましたが、やりたいと思ったことを、その気持ちに任せてやることも大切なことです。
明日も、午前中まで雨が残るようなので、試合ができるか微妙なところですが、今日よりは、可能性があるので、期待して明日を待ちたいと思います。
それでは今日は、「入団への道」の続きの話をさせて頂きます。前回は、実戦デビューを翌日に控え、気合いを入れる為に床屋に行ったものの、気合いが入りすぎた髪型にされ、少し落ち込んだところまでお伝えしました。
いよいよ、実戦デビューの日がやって来ました。(1998年)1月30日。カープアカデミーのグランドで行われた、ウインターリーグ、ヒューストン・アストロズのアカデミーチームとの対戦。高校、大学と私は野手でしたが、よく思い出してみると、高校時代に2試合ほど練習試合で登板しているので、これが、約7年ぶりの実戦登板ということになります。
試合当日。私は、背番号18のカープのユニフォームを与えられました。私は、テスト生の立場であり、契約はしてません。本当なら、他のテスト生と同様に、Tシャツを着用しなければならないところですが、上之さんの配慮によって、私のユニフォーム着用が許されました。
「浩司、あんたには、実力的にユニフォームを着る資格がある。いい番号だろ。頑張れよ。」
こう言われ、私はユニフォームに袖を通しました。少し型は古いですが、憧れのプロのユニフォームです。気持ちが高ぶりました。これを着ただけで、すごく野球がうまくなったような気がしました。
試合開始。不思議と緊張はありませんでした。予定は中継ぎで2イニング。出番が近づくにつれて、私は、軽い興奮状態になりました。しかし、緊張とは違う、いい意味で自分の世界に「入っている」状態だったように思います。投手を本格的にやっていたのは、中学生のときまで。小学生のとき、リトルリーグの常勝チームのエースとして、自信満々で投げた気持ちを、記憶に留めているものの、たくさんあったはずの失敗体験は、長い月日と共に殆ど忘れ去りました。我ながら、なかなかいい性格をしています。緊張とは、基本的には「失敗したらどうしよう・・。」という、後ろ向きな気持ちから生まれる場合が多いと思います。その日の私は、投手としての失敗体験を持たない状態だったので、今振り返ってもなかなか真似することができないような、最高の精神状態でマウンドに登りました。
「これだよ、これ。この感覚を求めていた。」
試合のマウンドに登ったとき、すぐに思いました。グランドの中心の少し高いところに立ち、守る仲間の期待を背にして、先頭を切って相手に立ち向かう。こんなにやりがいのあるポジションはありません。この場所に戻って来たことに、懐かしさにも似た感情を抱きました。
「そうだ。やっぱりピッチャーが好きなんだ。この場所に戻ってこれて本当に良かった。」
私は、「夢中」で投げました。恐ろしく集中していました。目に入るのは、キャッチャーミットと相手打者のみ。投球の際は、音も全く耳に入りませんでした。文字通り夢の中にいるような感覚です。腕がよく振れます。今までの練習では動いていなかった筋肉までもが、久しぶりの試合の興奮によって呼び起こされ、全ての力が総動員されて、指先を通して白球に伝えられました。自分の力を出し切るというのは、まさにこの状態を指すのだと思います。
結果は、2回を投げて、被安打2、奪三振4の無失点でした。上々のデビュー戦です。しかも、驚いたことにその日のストレートのMAXが92マイル(約147キロ)を記録。当時の私としては、ちょっと考えられない数字でしたが、すごく自信になりました。
登板後は、アカデミーの首脳陣、選手から次々と祝福を受けました。みんなすごい笑顔です。ドミニカに来て約3週間。アカデミーの選手達に合流して5日目。唯一の日本人である私が、本当の意味で仲間として迎えられた瞬間でした。この日、私は大きな自信を掴むと同時に、投手の楽しさも思い出しました。
私自身、初めての試合でこれだけの球が投げられるとは思ってもいませんでした。全く先が見えていなかった、「入団への道」に光が射し、入団を現実のものとして意識できるところまで到達しました。また、この日を境に、練習に対する意識、自分に対する厳しさが一段と増したように思います。そういった意味で、この初登板は、その後、長く続くドミニカでの日々を、戦い抜く力を与えてくれたように思います。
その後も、私は、試合での登板を重ねました。
[2月4日]投球回3、被安打1、与四球1、奪三振3、無失点。先発で3イニング。結果としては前回同様良かったが、内容に不満。雨による下の悪さに気を取られて、上半身に頼る投球になった。下半身が弱いからこうなる。
[2月9日]投球回2、被安打1、奪三振3、無失点。ストレートは走ったが、カーブが抜けた。でも、右打者の内角へのストレートは力があり、収穫。試合を締めて、セーブも付いたし実りある1日だった。
[2月13日]投球回3、被安打4、奪三振2、無失点。ウインターリーグ最後の登板。意気込みすぎ?球が走らず、コントロールにもばらつきがあり、出来は悪かった。しかし、走者を出しても粘り強く投げて、点を与えなかったのは収穫。悪いときにどう戦うかはとても重要なこと。
ウインターリーグが終わりました。登板ごとに様々な課題を露呈しながらも、終わってみれば、4試合、10イニングを無失点という結果が出ました。上出来です。これから、アカデミーはしばらく休みになります。しかし、私はもちろん自主練習です。誰もいないグランドで一人黙々と練習です。試合での登板を経験したことにより、課題が明確になり、やることが増えたような気がします。
私のモチベーションは、このとき最高に高まっていました。ドミニカに来て、約1ヶ月半。全てが順調に滑り出していました。
まず、「人」に恵まれました。上之さんを始め、私の周りの人たちは皆、私の挑戦を心から応援してくれています。
食事面も、もっと苦戦を予想しましたが、意外とドミニカの料理を食べられるようになりました。独特の香辛料を使った料理は、日本から来た私にとって当初は抵抗がありましたが、だいぶ慣れました。今では、朝と昼は、アカデミーの選手と同じドミニカ料理をご馳走になっています。それに、私たちの住むサント・ドミンゴの街には、日本料理、中華料理をはじめ各国の料理店がたくさんあります。栄養面での心配は無用です。これは、体が資本のプロ野球選手を目指す私にとっては本当に嬉しいことでした。
暑さも、今のところ大丈夫です。日中の日なたは、かなりの暑さですが、木陰は意外と涼しいときもあります。しかし、今は冬。暑さはこれからが本番。この点は今後が少し不安です。
言葉は、まだまだ。でも、時々聞き取れる単語も出てくるようになり、ちょっと楽しいです。日本から持ち込んだ、CDとテキストを使って勉強をしていますが、真面目にやれば簡単な日常会話くらいは、マスターできるかも知れません。
全てが充実。順調そのもの。これからも、いい毎日が続きますように・・。
今日は、ここまでにします。長い文章にお付き合い下さりありがとうございました。

今日は、ナゴヤ球場でウエスタンリーグの中日戦が行われましたが、3回終了後に、試合前から降り続いていた雨が強くなり、ノーゲームとなりました。登板間隔が開いているだけに、中止は残念ですが、時間ができたので、今日は「入団への道」の続きを書きたいと思います。
前回は、ドミニカの空港で、それまで一緒に自主トレを行ってきた野村さん、黒田をはじめとする日本人選手ならびに、当時、カープに在籍したペレス、ペルドモをはじめとするドミニカ人選手の出国を見送り、それまで滞在したホテルから、アパートへ引越しをしたところまでお伝えしました。いよいよ日本人の選手は私1人となり、ドミニカ共和国での修業もこれからが本番です。
日本人選手が帰国した翌日の(1998年)1月26日、この日から私は、カープアカデミーのドミニカ人選手達と一緒に練習を行いました。
ここにいる選手達は、実力を認められ、カープアカデミーと契約を済ませ、多額ではないものの、給料を貰っている「契約選手」と、その契約選手になるためのテストとして、練習や試合に参加している「テスト生」に分かれます。契約選手は、背番号のついたカープのユニフォームを着用していますが、テスト生は、自前のユニフォームらしきものを着用しているので、色とりどりで、まとまりに欠けます。もっとも、そんなことを気にしているのは、日本人の私だけでしょう。ドミニカの人達は細かいことは気にしません。契約選手であっても、上はホーム用の白のユニフォーム、下は、ビジター用のグレーのズボンという有り得ないスタイルで平然と練習をしています。ここはドミニカです。細かいことに目くじらを立てていたら疲れてしまいます。何でも有り得ることとして受け流す心を養っていかねばなりません。
そういえば、上之さんと街を車で走っていると、こんなことがありました。信号のある交差点で私たちの車が停止すると、道路脇から男の子が走って来ました。恐らく、まだ5歳か6歳くらいではないでしょうか。その子は、持っていた容器の中に入っていた泥水(多分、水溜まりの水)を突然、私たちの車のフロントガラスにぶちまけたかと思うと、汚れた布らしきもので拭きはじめました。呆気にとられて見ていると、今度は私の乗る助手席のほうの窓のところに来て、手を出しています。これは一体!?もしかして、お金をくれと言っているのか!?私が戸惑っていると、隣で上之さんが言いました。
「浩司、(窓を)開けちゃだめだ。」
信号が青に変わったので、上之さんは、車を走らせました。諦めたその子は、車から離れ、道端に戻っていきました。私が、ずっと目で追っていると、その子の走る先には、大人が座っていました。まさか、親!?家族ぐるみなのか!驚きました。「窓を拭いたから、金をくれ。」ということらしいです。しかも、あの一家は、あの「仕事」で生計を立てているのです。
その後も、「拭いた後のほうが汚い窓拭き」以外にも、交差点に止まるたびに様々なものを見ました。新聞売り、お菓子売り、生きた鳥売り、変な動物売り、どこかで拾ってきたもの売りなどなど、結局、ドミニカ滞在中に交差点で新聞以外は買うことはありませんでしたが、非常にインパクトのある出来事として、今でも鮮明に心に残っています。
話は逸れましたが、ここドミニカでは、今まで暮らして来た日本で培った常識にとらわれていたらいけないということです。
ドミニカ人選手との練習が始まりました。みんな明るく友好的なので、すんなりと溶け込むことができました。あるとき、日本語(カタカナ)で彼らの名前を書いてあげるととても喜ぶことが分かり、ほぼ全員の帽子の裏に名前をマジック書き、コミュニケーションを図りました。言葉はまだほとんど通じませんが、野球のルールや基本は何処でも一緒。何とかなるものです。ただ、のんびりとした国民性そのままに、練習も終始のんびりリラックスムード。練習と練習の間の休憩が長く、最後は流れ解散。いつ練習が終わったのかすら分かりません。日本人の中でもせっかちな部類に入る私にとって、ちょっとイライラするときもありましたが、
「ここは、ドミニカ。これが当たり前。我慢、我慢。」
と呟きながら、そのゆっくりした流れに逆らうことなく乗ることにしました。
ただ、足りない部分は、自分で補う必要があります。試合のない日は、基本的に午前中で練習が終わるので、午後からは、一人グランドに出て、走り込みをしたり、ネットに向かってボールを投げたりして過ごしました。アカデミーの広大な敷地を独り占めしての自主練習。何とも贅沢です。
私自身、プロの投手になる為には、全てが足りないと思っていました。中には、帰国まではたくさんの時間があるのだから、ゆっくりやればいいと言ってくれる人もいましたが、ゆっくりやっていては、全ての課題を克服出来ないと私は感じていました。従って、自主練習はほぼ毎日の日課になりました。
[異国の地の誰もいない広大なグランドで、一人自主練習。誰も見てないけど、黙々と走る。誰も見てないけど、黙々と投げる。練習に没頭してるうちに、太陽は西に傾き、辺りは一面燃えるようなオレンジ色に。南国の情熱的な夕焼け空を見上げ、私は汗を拭った。]
プロジェクトXの主題歌「地上の星」を流して欲しいくらいですね。野球に飢えていた私。やっと得た野球をする機会を、私は心から喜んでいました。疲れ果てるまで野球ができることが幸せであると同時に、頑張っている自分に少し酔っている部分もあったように思います。
ドミニカに入って、まだ3週間。私はとても元気でした。自主練習が終わって、首都のサント・ドミンゴに戻ってからも体力強化をする為に、アパート近くのホテル内にある、スポーツジムの会員になり、ウエイトトレーニングと水泳を行うことにしました。
練習環境も整い、順調にドミニカでの生活を滑り出した私に、朗報が届きました。私の試合での登板を打診していた上之さんのもとに、試合登板を許可するとの連絡が届いたのです。
「浩司!試合だ!投げられることになったぞ。いつがいい?早いほうがいいな。じゃあ、(1月)30日のアストロズ戦だ。頑張れよ!」
「はい!」
いよいよ、実践デビューが決まりました。大きな喜びと、ほんの少しの緊張を私は覚えました。
私は、試合前日に気合いを入れる為に、近くの床屋に散髪に行きました。結果は散々。コミュニケーション力不足から、激しく刈り上げられ、もみあげは切り落とされ・・。この髪型、気合い入り過ぎです。まあ、気にしない。ここは、ドミニカですから。
今日は、ここまでです。次回は、感激の実戦登板の場面からお伝えしたいと思います。

随分久しぶりになってしまいましたが、「入団への道」のドミニカ野球留学編の話の続きをさせていただきます。
前回(4月28日更新分)は、ドミニカ共和国での2日目夜、コミュニケーション力の不足から、黒田が食事会場から怒って帰ってしまった事件をきっかけに、私が、ドミニカの公用語であるスペイン語を学ぶ決意をしたところまでお伝えしました。
次の朝、黒田は、私達の心配をよそに、元気よくアカデミーまで向かうマイクロバスに乗り込んで来ました。
「お早うございます!」
その明るい声を聞いて、私は安心しました。恐らく、その場にいた(小林)幹英と遠藤も同じ気持ちだったように思います。
よく考えてみれば、黒田は、私や幹英からすれば1つ年下です。しかし、既に1年間プロとして実績を積んだ者と、そうでない者の間には、大袈裟に言えば格の違いみたいなものが存在していたので、私達の自主トレはやはり黒田を中心に回っていました。従って、黒田が不機嫌だと困るのです。やはり練習は明るい雰囲気の中でやりたいですからね。だからこそ、一夜明けて持ち直した彼を見てみんなホッとしたのです。
ドミニカでの自主トレは順調に進みました。やはり温暖な気候が、投球に好影響を及ぼしているようです。肩や肘の関節が、日本にいるときよりスムースに動くような感じがして、力を入れなくてもいいボールが投げられました。
そんな私を見て、早めの試合での登板を首脳陣に打診してくれた人物がいました。ドミニカのカープアカデミー責任者の上之(うえの)さんです。上之さんは、中学生のときこのドミニカ共和国に家族と共に移り住み、以来、様々な苦労を重ねながらも自らの努力で道を拓いてきた方で、私と出会う数年前には、カープのドミニカ人選手の通訳として日本でも活躍されていました。
「浩司、いい感じだなぁ。早めに試合で投げたいだろ?試合で投げた方が課題も見えてくるしいいと思うぞ。」
上之さんは、ドミニカ滞在当初から親しみを込めて私のことを「浩司」と呼んでくれて、本当に色々と気にかけてくれました。結果的に私は9ヶ月ものドミニカでの修行を完走することができましたが、それは、上之さんの存在があったからこそであり、間違いなく私の恩人の1人です。
ドミニカに来て1週間後の1月16日。私は初めてブルペンに入りました。立投げ(捕手を立たせたままの状態で行うブルペンでの投球練習)で30球。白武スカウトや上之さん、そしてたくさんのドミニカ人選手が見守る中で投球を披露することになりました。
多くの人が注目する中での投球だったので、少し力が入りましたが、非常にいいボールを投げることができました。当時の日記には、投球の際の留意点として毎日のように「柔らかく、大きく!」と記されています。これは、「ボールを柔らかく握り、手首や肘を柔らかく使い、フォローを大きくとる。」ことを指しています。これを常に念頭に置いて、キャッチボールや遠投を重ねてきた成果が出たのです。
評価も上々でした。上之さんは、「今後、アカデミーの選手のいい見本になってやってくれ。」と言い、白武スカウトも「1位(遠藤)と比べても遜色ない。」とまで言ってくれました。私の中で、その日の状態が出来過ぎであったことは分かっていましたが、投手としてこれだけ褒められたのは、子供の頃以来だったので、とても幸せでした。
夜は、ドミニカの自主トレに合流した、野村さんを交えて、私たちの宿泊するホテルから車で40分ほど離れた、首都サント・ドミンゴへ焼肉を食べに行きました。
ドミニカ共和国は、経済的にそれほど豊かな国ではないと思いますが、首都であるサント・ドミンゴの中心部だけは別格です。カジノ付きの高級ホテルや、富裕層の豪邸が立ち並び、数多くのレストランも存在します。また、街路樹が道を覆うほど生い茂り、高いところから、サント・ドミンゴの街を眺めると、まるで森の中に街が存在するかのようです。
その街の一角にある焼肉屋さんで、私は、数年後に2000本安打という偉業を成し遂げることになるスター選手と、席を並べて食事をすることになりました。
黒田と初めて話をしたときも、非常に嬉しかったですが、野村さんとの会話は、また感動的でした。憧れのスター選手と、一緒に食事をして、会話をする。数カ月前では、考えられなかったことが、今、現実となっています。
しかも、野村さんは、上之さんから、私がドミニカに来たいきさつを聞くと、何度も私に対して励ましの言葉をかけてくれました。とても感激をしました。そして、決意を新たにしました。
「入団を勝ち取って、野村さんと同じグランドに立つんだ!」
昼間の初ブルペンと合わせて、私にとっては忘れられない、幸せな1日となりました。
その後も私の自主トレは概ね順調に進みました。ブルペンでの投球数が増えるにつれ、腕に疲れが出てボールが行かなくなる日もありましたが、それも少しずつ改善され、徐々に投手らしくなっていきました。
そして迎えた、1月25日。野村さん、黒田をはじめとする日本人選手が帰国する日になりました。私は、日中のほとんどの時間を見送りの為に空港で過ごしました。明日からの練習は、アカデミーのドミニカ人選手に混じって行うことになり、グランド上では日本人は1人ということになります。それでも、多少の不安はありましたが、寂しさは感じませんでした。なぜなら、同じくその日、日本へ向かう為に空港に来た、当時のカープに在籍したドミニカ人選手である、ペルドモ、ペレス、グスマン、ケサダの4人の前向きな姿を見たからです。彼らも、これから長い間、母国を離れて異国の地で野球をすることになるのですが、驚くほど生き生きとしていて、明るく旅立っていきました。そうです。寂しがっている暇などないのです。私もドミニカ人選手も、夢を掴む為に母国を離れて野球をしているのですから。
みんなの出国を見送ってから、私は、今まで滞在したホテルから、首都・サント・ドミンゴにあるアパートに引越しました。明日からは、生活環境も練習相手も変わります。私のドミニカでの野球留学もこれからが本番です。私は、希望とほんの少しの不安を胸に眠りにつきました。
今日は、ここまでにします。現在はファームに在籍する私ですが、ドミニカでの日々を思い出すと前向きな気持ちになります。今後も、当時のように何があっても前向きに生きていきたいと思います。

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